【生産者インタビュー】長野県・がんも農場 がんもさん
「がんも農場の農場長による農場長ヒストリー」




 

がんもさん、ごはんとおともは大好きです。
一番歳では近いですし、ダサいとご自身で思うことも正直に話してくださる。
きっと、もうそこを乗り越えた格好いい男なんだろうな。
波乱万丈あって、今を楽しんでるのが伝わります。
趣味は読書とDJ。
がんもさんの家には、読書とDJブースがあって僕たちはそこが大好きなスポットです。
そんながんもさんの、
正直で、おもしろい経歴と、多趣味なたのしいインタビューをどうぞ!
※がんもさん、って顔の形ががんもに似ているから学生の頃呼ばれていたそう。いいね!
(byはしもとえいじ)



兄貴に影響をうけた少年時代
 


(はっぴ似合うな〜、がんもさん)

 
両親と兄貴の家族4人だったよ。
兄貴の影響をすごく受けたと思う。
いまは休憩中だけど、学生のころレコード買いあさってDJしたのも兄貴の影響。
兄貴とは7つ歳が離れているから兄貴のやることなんでも目新しかった。
小学校の時には兄貴のレコードが家に溢れていて、
おれも高校でバイトしてお金貯めてターンテーブルを買ったんだ。
結局ターンテーブルが4台も家にあったの(笑)。
兄貴のもあったんだけど、弟って影響受けてるくせに、やっぱり自立して自分でやりたいって言うんだよね。
ほんとは全然自立できてないけど、、そういうとこあったなー(笑)。

 
本は母親の影響。母親が本大好きなんだ。
小さいころ母親が図書館に週に一回は連れて行ってくれたんだよ。
小学生のころは、宮沢賢二、島崎藤村、夏目漱石とか読んでた。
島崎藤村は、「破戒」って小説がね、小学生ながらに印象に残ってるなあ。
あと小さい頃の大きなエピソードは、
兄貴から中学3年のときに、
村上龍の「すべての男は消耗品である」というエッセイを読めって言われて、
ほとんど意味わかんないんだけど、本好きだからとりあえず読んでいて、
たしか「ブスは生きる価値がない」って書いてあったと思うんだけど、
それはおれの中ですごい影響を与えたと思う。
ブスは結局容姿では勝てないから、知識とか技術で勝つしかないって書いてあって、
おれもそっちで頑張るしかないって思った(笑)。
どーんって突き落とされたような、おれは価値がない人間なんだ、
なにか努力をしないと、ダメな側の人間なんだって、ショックを受けたんだよ。
それが受験勉強がんばる原動力だったよ。(笑)

 
あと小さい頃どういう男の子だったかっていうと、
最近おやじとその話をしたんだけど、
「人の話を聞かない子」って言ってた(笑)。
その場では適当な相槌をうって丸くおさめるんだけど、
自分がこうだっていうのには頑固で、人の話は右から左という感じの
子供だったらしい。
長男である兄貴にはない特徴だって、言ってた。
おれはどっちかっていったら危ない橋を知らずに勝手に渡って行っちゃう。
 


板前修業とハイパーメディアクリエイターの秘書を経てわかったことは、
小さい頃から変わらない「自分で世界をつくっていきたい」ということ


 

(いけー!がんもさん!)
 

大学卒業してからは、板前で修業したんだよね。
きっかけは、好きな音楽では食べてけないし、かと言って音楽業界に就職するのも簡単でない。
一般企業もことごとく不合格。
それで、自分の手に技術を身に着けたい!そんな思いがあって。
それに、もともと料理好きが高じてね。
飲食業界ってさ、就職の募集人数が多かったの。
だから入るのは楽なのでは??と思った。
でも、どうせ入るなら最高峰のお店で技術を身に着けたい。
それで当時赤坂見附にあった京料理の割烹に入ったんだ。


でも技術を習得するのはとてもとても大変でさ、、、。
最初はとにかく無駄に時間を浪費させられる。先輩が帰らないと帰れないし、
親方や兄弟子はもちろん、同期の弟子の中の誰よりも早く出勤しないと仕事を教えてもらえない。
終電逃したら、よくお客さんの座敷に寝てたなぁ。
今思えばクーラーもあるし、同期の弟子だけで寝てたからまだよかった。
他の弟子たちと毎日のように座敷に寝てたら臭くなってきてさ(笑)。
だから近くの兄弟子のアパートにみんなで住むようになった。
そこからが地獄、、、。
アパートでは兄弟子の監視の目があって、ものすごい緊張感のなかで暮らさなくちゃで。
例えば深夜にサッカー中継を兄弟子は見るんだよ。
正座で見ていても、思わず寝ちゃう。そうすると翌朝「先に寝やがって!」とひっぱたかれる。
そんなわけで、自由に寝れないわけさ。でも6時には店でスタンバイ。
つらかったなあ、、、。板前修業は7ヶ月間やったな。
 



(いつも手料理でもてなしてくれます。これは土鍋みぞれ鍋。うめ〜んだこれが)
 

最終的には精神的にまいって、常に尿意がとまらなくなってさ。
もう、、、とにかくギリギリだった!(笑)
OLじゃないけど、地下鉄で泣き崩れたこともあったよ(笑)。
でも辞めるといったら前蹴りが飛んでくるんだよね(笑)。
なんとか辞めることができて、実家に帰ったんだけど、
家族中に反対されて出てきた手前、合わす顔はないし、ほかに行くところもない。
敗北感だったよね、、、。
22歳の時は、なんでもできる自信があったから、心をへし折られて参っちゃった。
それが2006年10月くらいのことだったかな。
 
でもその2ヶ月後、12月から、
ハイパーメディアクリエイターの高城剛さんのアシスタントをやらせてもらうことになったんだよね。
板前修業を辞めてから暇だからずっと本読んでたのね。
その中で「ヤバいぜっ!デジタル日本」っていう高城さんの本を読んで、
「この人はおもしろい!!」と思って会社に電話したんだよね。
ちょうど高城さんがDJ始めたばっかりの時で、DJができる人材を探していた。
あと、出身が違う業界の人ならとるという条件だったな。
タイミングがばっちり合って、面接したら来週から来てと言われた。
最初はレコード買ったり、音楽ミックスしたりと楽しいことばっかり。
印象的だったのは、自分のお歳暮で贈りものを作って欲しいっていう仕事。
炭酸入りの日本酒で仕込んだ梅酒を瓶詰めして欲しい。
どっかで飲んでおいしかったから、作ってくれって。
実際に作ってはみたけど、結局お歳暮にはならなかったな(笑)。
おそらく出来がいまいちだったんだと思う(笑)。
高城さんの本を読んだ時、激しく感動した。考え方も、アウトプットもかっこいい!
現場で見ていても、高城さんがプレゼンしたら、その場のだれもが「おお!」と唸る。
でも今度は意地で3年は続けたんだけど、結局これ以上はついていけないと思ってる自分がいた。


今思えば当たり前のことだけど、割烹にも憧れて、入ってみたら現実は違っていた。
結局自分の考えが全く通用しない。
よくよく考えてみたら、
京料理でも高城さんとこでも同じ間違いを自分はしてしまってることに気づいた。
憧れている人たちは、自分の目指した世界を作っている。
おれはちっちゃい頃、頑固だったように、
誰かのやりたいことではなく、自分のやりたいことをやりたいようにやりたい。
どこかの組織に入って、どこかしらにやりがいを見つけてやるのではなく、
100%自分でやりたい!やってみたい!
これも今思えば若気の至りだなと思うけど(笑)。
多分やらないといつまでも納得できなかったから、、、。
 


商品作物としてのお米じゃなく、主食で、文化があって、食べる人が多い「深みのお米」にホレた

 

(俵もがんもさん、自分でつくります。玄関にどーんってあります)

 
高城さんのところにいたときに、ひそかに農業をやる準備はしてたな。半年くらい。
それで辞めてから三ヶ月間は東京にいて、
漫画喫茶に泊まったり、兄貴の家に泊まったり、、、。
そして東京に住む家もなかったので、佐久に住む家が見つかったと同時に、
研修先を決める前に、長野への移住を先にしてしまった。
このときも兄貴の影響が大きくて、ちょうど兄貴も移住したいと考えていて、
長野に行ったり、物件決めたりと一緒に兄貴と動いてたんだ。
おれは仕事辞めてお金もないから、このときも本当に兄貴にはお世話になったよ。


無一文、車もなし、だから、まずは生活資金が必要だった。
3年はパチンコ屋をメインで働いていて、すきま時間で農家さん手伝っていたな。
特に初年度はチャリンコ通勤。2010年1月に引越してバイト始めたから、
パチンコ屋終わった帰りの夜道は氷点下でさ、きつかったなぁ(笑)
お手伝いは給料くれる農家さんじゃないと成立しなかった。
その条件の農家さんがお米農家さんだったっていうのが、お米と出逢ったきっかけなんだよね。
でも最終的にお米農家を選んだのは、お米が単純におもしろいってこと。
長野には有機で農業をやっているが人けっこういて、
野菜を個人宅配してる人が既にいっぱいいたんだけど、
お米は逆にほとんどやってる人がいない。
ズッキーニとかレタスとかキャベツとかも産地として有名なんだけど、
お米のほうがたくさんの人に食べてもらえるかなーと思って。
あと、主食だからこそ歴史が深いし技術も蓄積がある。
それに田舎にくれば誰もが田んぼをもっていて、ご近所さんも含めてみんな米作り仲間なんだよ。
そういう文化も含めた全般がおもしろいと思ったんだよね。
単純な商品作物というだけじゃなく、掘れば掘るほど深みがあるっていうのでお米だったんだよね。

 
いまの「がん!がん!がんもの農場日誌」というブログ自体は、
移住してきた時点ではじめた。
農業を生業にするからには自分で作って自分で売るっていうのは大前提で、
名刺がわりにブログは必要だなって思ってた。
そしたら農園の名前を決めなきゃと。
学生のころに顔の形が「がんも」に似ているから、
「がんも」っていうあだ名を不本意ながら高1の春にもらってた。
それで「がんも農場」にしよう!と。

 
移住してからお手伝いしていた農家さんは、
地元の人にしては珍しく、ブログで情報発信を積極的にしている人だったんだ。
東京にいたけど実家が農家だから、40歳前後で帰ってきて家業を継いだんだって。
きっかけを与えてくれて、販売のモデルを教えてくれた。
農家としての基本はその人から教えてもらったなあ。

 

結婚はプラスに働く!
 


(いいコンビ。背丈、空気感、、、やっぱりいわゆる「お似合い」ってありますね)
 

一人のときは自分で全部やっていたし、とにかく日々をまわすのでいっぱいいっぱいで、
特に必要性を感じることもなく、栽培のデータを残してこなかった。
さきちゃんと二人になってからは、お互いに情報共有できないとうまくいかないから、
資料を作ったり、仕事を頼むときにあらかじめ段取り考えたり、
作業後に記録を残すとか、新たな作業が加わったよね。
小さいけど組織としての働き方をしなくてはならなくなった変化はあったな。
 

さきちゃんは、店頭に立って販売したり、コミュ二ケーションもうまい。
さきちゃんが入ってがんも農場としての広がりがでてきたよ。
あと農作業は二人でやるとぜんぜん早い。
二人でやれば指摘しあったり、補い合ったりできて、本当によくなったと思う。
でも結婚する前は、そのときの自分に実は満足しちゃっていたんだよ。
家賃4万円で一戸建て、自由でノーストレスで。
東京でネットカフェ難民だったころと比べたら、もう十分すぎるくらい幸せだーー!って。
結婚したら、朝ごはんはちゃんと食べなきゃいけないし、
生活費を決めて、子供も、、、ってマイナスに考えてたんだよね。
でも結婚して、目指すべき目標ができて、やりがいできた。
昔からお金持ちになりたいとか、ポルシェ乗りたいとか、
ふわっとした成功のイメージにはあまり興味わかないんだけど、
「結婚!」「家族養う!」「子供と暮らしたい!」とかリアリティのある幸せには頑張れると思ったんだよね。
 


今は、「届けるべき相手に、暖かい温度でお届けする農家」に

 

(お客さんに渡すお米のつつみ。一個一個、丁寧に、たのしく)

 
10年、20年先はわからないよね、、、。
とにかく今は生産者として、技術を積み上げていきたい。
生産者が前にでて、消費者に情報を伝えるのも今以上にやっていきたい
思いはあるけど、がんも農場として足りないのは、栽培技術。
移住してきてゼロから農業をやっているからこそ、
地元でやってる誰よりも農家としてのキャリアは浅い。
だからこそ、生産者としての技術を身に付けて、佐久の浅科の農家として、
どこに出ても恥ずかしくないような技術と知識を身に付けたい。
「濱田ファーム」の濱田律子さんが、「夫婦経営で非効率だけど、
濱田智和さんがちゃんとつくってあたたかみをもってお届けする。」
そんなことをブログで書いてたけど、まさに僕らもそれをやりたい。

 
将来的にはもしかしたらこのままだし、もしかしたら会社でやっていくのかもしれない。
絶対これが正解というものではないかもしれないけど、
今の自分たちにとっては、、
「自分たちが作ったものを、現場の温度をそのまま箱詰めしてお届けする。」
これを目の前のお客さまにちゃんとやりたい、と思ってるよ。